展覧会 No.030
『 記録 』

アーティスト

1938年大阪生まれ。写真家・岩宮武二、細江英公のアシスタントを経て1964年に独立。写真雑誌などで作品を発表し続け、1967年「にっぽん劇場」で日本写真批評家協会新人賞受賞。1968-70年には写真同人誌『プロヴォーク』に参加、ハイコントラストや粗粒子画面の作風は“アレ・ブレ・ボケ”と形容され、写真界に衝撃を与える。
ニューヨーク・メトロポリタン美術館やパリ・カルティエ現代美術財団で個展を開催するなど世界的評価も高く、2012年にはニューヨークの国際写真センター(ICP)が主催する第28回インフィニティ賞生涯功績部門を日本人として初受賞。2012年、ウィリアム・クラインとの二人展「William Klein + Daido Moriyama」がロンドンのテート・モダンで開催され、2人の競演は世界を席巻した。2016年、パリ・カルティエ現代美術財団にて2度目の個展「DAIDO TOKYO」展を開催。2018年、フランス政府より芸術文化勲章「シュヴァリエ」が授与された。2019年、ハッセルブラッド財団国際写真賞受賞。
2021年、パリのMEP(ヨーロッパ写真美術館)にて東松照明との二人展「Tokyo: 森山大道+東松照明」を開催。2022年、アムステルダムやローマ、サンパウロ、北京で個展を開催するなど、現在も精力的に活動を行っている。

出版物

記録(Akio Nagasawa Edition)

$55.97
在庫有り

「日常で撮ったものをすぐに焼いて、近くの人たちに手渡しで見せるという最小限のメディアを」と模索する中、1972年に始められた私家版写真誌『記録』。翌年の第5号をもって一時休刊となりましたが、2006年に復活し、現在も継続的に刊行されています。
本書は『記録』1号~30号のダイジェスト版となります。オリジナルと同じサイズで再現されており、森山自身の後書きも収録、収録点数は280点にも及びます。

森山大道の原点とも言える『記録』。
写真家として歩んできた森山の長い道のりをお楽しみください。

記録52号

$20.99
在庫有り

「記録」誌50号の発刊にさいして、AKIO NAGASAWA GALLERYの銀座スペースで、今年の5月末より10月頭に亘る長期のスライド・ショーが開催された。
会期中、すでにぼくは幾度となく会場に行って、7台のプロジェクターによってギャラリーの壁面にすき間なく映写される5,000点もの雑多なイメージの真中に立ち尽し、全身に当る光の破片のさ中で、日常とは遊離した不思議な感覚を体験した。壁の周囲にびっしりとスライドされている写真は、たしかに自分が写したものではあるが、視界に映り、間断なく入れ替わっていく時・空の錯綜につれて、たったいま目にするイメージたちがすらっと遠のいて、ぼく自身が、どこか遠くの見知らぬ風景のさ中を夢遊し、さまよっている感覚になり変っていく。
東京、マラケシュ、ニューヨークと、間断なく映りつづける奇妙なイメージの混乱は、すでにもはや写した当人を離れて、写真本来に在るアノニマスの方向へと立ち戻っていく。オレが撮ったイメージだからなどということは全く離れて、いつしか映るイメージにある<写真>という名のスプリットそのものになるわけだ。
ぼくは自らのスライド・ショーを観ることで、いまさらながら、新たなる感応の在り様を識った。
ギャラリーのドアを開けて一歩内部(なか)に入ると、一種得体のしれない音声が耳に伝わってくる。
?と思うその音声は、あちこちの街頭で録音されたさまざまな音色が、幾重にもダブって、マカ不思議なノイズと化して、聴くもののなかにしみ渡ってくる。
突如、女の矯声が紛れこんだりするのだ。

-森山大道 あとがきより

記録51号

$20.99
在庫有り

現在サンパウロの美術館でぼくの写真展が始まっている。そしてローマと北京の美術館でも展覧会の真中である。ぼくの写真が遠く離れたそれぞれの街の人々にどう見られているのかな?などと思いながら、たったいま、東京の西新宿ヨドバシカメラの街角に掛かった3メートル四方の、大きく真赤な女の唇を描いたエロティックな看板の撮影中なのだ。クチビルフェチのぼくであれば、それはもう写すしかないわけで、その一枚を写したことでぼくの気持ちにはずみがついて、この後ぼくは西口ガード付近の飲み屋街と雑沓する幾多の人を写して「記録」誌51号は西新宿で一冊を決めた。久しぶりに撮り歩く西口界隈、相も変わらぬスタンスですが果してどう見てもらえるものか?
ところで、ここのところぼくは、故・武田百合子さんが、かつて富士山麓の別荘で13年間に渡って書き記した「富士日記」を読む時間が多くなった。作者が日々の具体を懇切に記せば記すほど、記された平面が読むものに立体として映り、有りがちな情緒や感傷が一切拭い去られていて、記した人の体温がどこかユーモラスにすら伝わってくる。そして記した人が待ち過した幾多の日常という名のしたたかな時間のディテールが、途方もない叙事そのものとして、どこか言葉を越えた柔軟性を持ってしまっている。そのことはぼくに、写真というツールに在る、決定的な強靭さと柔軟さを改めて知らしめてくれた。(著者の武田百合子さんは、言うまでもなく作家の故・武田泰淳さんの奥さんであり、娘さんは写真家の武田花さんである。)

記録50号

$20.99
在庫無し

昨年12月初旬のたそがれ時、ぼくは銀座のAKIO NAGASAWA PublishingでYACOさんという名の一人の女性と会った。そのころぼくはよく、「記録」も街頭や路上スナップばかりじゃなくてさ、ときには女のひとの写真も写してみたいよねー、なんて云っていたので、じゃあということで長澤章生さんがYACOさんを連れてきてくれたわけである。彼女と会って、しばらくあれこれと話しているうちに、ふとそれとなく彼女が持つ感性の在りようが伝わってくるので、よし、オレはこのさいYACOさんで「記録」作っちゃうぞ、と決めてしまった。

 そうと決まれば話は早いわけで、ぼくはそのままYACOさんを宵の銀座や有楽町のあちこちをラフなコート姿のまま連れ回して撮りついでいった。折から街は、クリスマスのイルミネーションで華やかな背景だったし、写されるYACOさんの反応も自在でフレキブルだったので、ぼくは2時間足らずで撮影を了えてギャラリーに立ち戻った。

そして、しばし休息をしてもらったのち、ギャラリー上下の2フロアを使って裸を撮らせてもらった。YACOさんはさらりと脱いでくれたうえ、ぼくがどうのこうのと言うまえに、ごく自然にさり気なくポーズを決めてくれるので、ぼくはそれにつれてただシャッターを押しつづければいいわけで、ほぼ2時間足らずで全てが終了した。
きっと、この宵の写すものと写されるものの記録と記憶は、さりげなく「記録」のページとなって反映されるはずだ。

「記録」誌が、YACOさんの1冊特集になったことは、ぼくの思いがたとえそこに在ったとしてもやはり異例のことだったのかもしれない。まあ、そんなこと別にどうということではないのだが、50号は特例ということにしておいて、再び元のペースに立ち戻ろうと思う。歩く、見る、撮る、ぼくに結局これしかない。先日、長澤さんと鎌倉の喫茶店でお会いしたとき、彼はさらりとモリヤマさん「記録」100号行きましょうね。と云ってくれた。ぼくもさらりと有難うと応えていた。長澤さんの「記録」への気持ちが嬉しかったのだ。しかし、51号、52号とひとこまひとこまと進めていく他はない。とにかく現在(いま)のぼくにとって「記録」誌は、ぼくの写真のライフ・ワーク、ライフ・ラインに他ならないのだから…。

-森山大道 あとがきより